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【株仲間の紹介】
江戸時代には、同じ商品を扱う仲間が集まり、株という営業独占権を持つことが 幕府に認められたグループがありました。 株を持って仲間に入らなければ、営業が出来ない仕組みになっていました。 道修町薬種中買仲間も株を公認された仲間の一つでした。 薬種中買仲間の成立から解散するまでの人数の推移は、道修町に残る 「薬種中買仲間人数張」に記載されています。
| 年号 |
文書名 |
人数 |
| 享保10(1725)年 |
道修町仲間人数之覚 |
124人 |
| 寛永3(1750)年 |
道修町筋薬種中買仲間人数張 |
124人 |
| 宝暦9(1759)年 |
薬種中買仲間人数帳 |
124人 |
| 天明1(1781)年 |
薬種中買仲間人数帳 |
124人 |
| 寛政11(1799)年 |
薬種中買仲間人数帳 |
129人 |
| 文政6(1823)年 |
薬種中買仲間人数帳 |
129人 |
| 嘉永4(1851)年 |
薬種中買仲間名前帳 |
129人+48人 (安政3年) |
| 慶応4(1868)年 |
薬種中買仲間名前帳 |
129人+65人 |
| 明治5(1872)年 |
薬種中買仲間人数帳 |
129人+59人 |
注)+の人数は神農講に加入の「薬種中買之内」の人数
薬種中買仲間人数張<表紙>
【有力薬種中買仲間の系譜】
道修町には、武田・田辺・小野など薬種中買仲間が今日に続いている企業や、塩野義・藤沢など分家、別家から 発展を遂げた企業が数多くあります。 明治5(1872)年の『判等組合人数帳』に174人の旧屋号と新姓が記載されています。(下記はその一例)
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新姓名の例(※は現存する企業) <旧中買仲間の部>
吉川 鍵屋林兵衛 道修町一丁目
福嶋 福嶋屋精右衛門 道修町一丁目 家持
村松 奈良屋源兵衛 道修町一丁目
成尾 近江屋安五郎
道修町一丁目
宗田 大和屋戸友次郎
道修町一丁目 夏目 備前屋小三郎 道修町二町目
松本 備前屋九郎兵衛(日野?) 道修町二町目 家持
福嶋 福嶋屋善七
道修町二町目 家持 ※乾 鍵屋利兵衛
道修町二町目 家持
小西 小西茂兵衛 道修町二町目 家持
中上 近江屋太右衛門
道修町二町目
家持 ※小野 伏見屋市兵衛
道修町二町目 家持
田中 近江屋杢兵衛 道修町二町目
祐森 近江屋作兵衛
道修町二町目
小西 小西伊兵衛
道修町二町目
家持 ※山口 田邊屋正兵衛
道修町二町目 家持
稲益 鍵屋清助
道修町二町目
小寺 鍵屋孝次(治)郎 道修町二町目
竹内 近江屋萬兵衛
道修町二町目
秋宗 田邊屋清兵衛
道修町二町目
北浦 近江屋清助
道修町二町目
長州 伏見屋清八
道修町二町目
田畑 田邊屋利兵衛 道修町二町目
清水 鍵屋清右衛門
道修町二町目 家持
塩野 塩野屋宗三郎
道修町二町目
家持
福田 近江屋清右衛門
道修町二町目
小西 小西又七
道修町二町目
友田 近江屋嘉兵衛 道修町二町目 ※武田 近江屋長兵衛
道修町二町目 家持
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大江 鍵屋吉兵衛 道修町三町目
春元 備前屋重助
道修町三町目
和田 鍵屋卯助 道修町三町目 ※西川 近江屋仁兵衛(三国?) 道修町三町目
安川 近江屋茂兵衛
道修町三町目
谷山 大和屋伊兵衛
道修町三町目 家持
津田 大和屋重兵衛
道修町三町目 家持
東川 大和屋吉兵衛
道修町三町目 家持
河合 近江屋五郎兵衛
道修町三町目 家持
津好 近江屋宗八
道修町三町目 家持
小西 小西久兵衛
道修町三町目
吹田 近江屋平次郎
道修町三町目
福井 大和屋七郎兵衛
道修町三町目
柚木 近江屋與兵衛
道修町三町目
岡本 鍵屋佐右衛門
道修町三町目 ※田邊 田邊屋五兵衛
道修町三町目 家持 ※塩野 塩野屋吉兵衛
道修町三町目 家持
塩野 塩野屋直助
道修町三町目 <旧仲間之内の部>
津田 大和屋重次郎 道修町三町目 家持
森 大和屋政七
道修町三町目
田邊 田邊屋金助
道修町三町目
塩野 塩野屋甚助
道修町三町目
脇坂 近江屋定八
道修町三町目 ※乾 近江屋卯兵衛
道修町三町目
浜地 備前屋傅兵衛
道修町三町目
黒石 鍵屋定助
道修町三町目
以上のほか、「薬種中買仲間人数張」に記載されて いない脇店と思われる江戸時代からの老舗として 次の名が挙げられます。 ※上村 讃岐屋長兵衛
道修町二丁目 ※北垣 大和屋清兵衛
道修町三丁目 小西 小西喜兵衛
道修町三町目 |
【株仲間解散、大阪薬種商組合へ】
幕末の安政6(1859)年の横浜港、慶応3(1867)年の神戸港の開港に伴い、洋薬が入りその量も増えてきました。 明治5(1872)年に政府の命令により株仲間は解散しました。 そこで、道修町の旧中買仲間たちは明治7(1880)、「薬種商組合」を結成・認可され、組合事務所を旧寄合所に置きました。 明治13(1880)には、問屋と仲買に名称が分かれたのに伴い「薬種商問屋仲買仲間」と改称しまいした。 当時の問屋には大量に集荷する「元卸問屋」、地方からの注文に応じる「注文屋」、元卸や仲買から仕入れて注文やセリに 売る「店売屋」があります。この三者の間で仲介するのが「仲買」でした。 明治27(1894)年に「大阪薬種卸仲買組合」と改称しましたが、仲間としての活動は一貫して続きました。 一方、製薬事業の出現に伴い、明治35(1902)年には「大阪製薬同業組合」を結成。 第二次世界大戦中の経済統制になるまで、流通面の大阪薬種卸仲買仲間と製薬面の大阪製薬同業組合の両輪で進む ことになりました。 戦後は、各業種ごとに組合や協会を設立しています。 (例:大阪医薬品協会、大阪医薬品元卸商組合、大阪化学工業品協会、大阪生薬協会、西部試薬協会、大阪家庭薬協会 日本食品添加物協会、大阪医療品卸商組合など)
 木煉瓦を敷いた道修町(昭和初期)
【伊勢講から薬祖講へ結束を続ける町】
道修町薬種中買仲間は、仲間内の親睦団体「伊勢講」を結成して、当初は伊勢神宮に参拝していました。 その後、道修町は和漢の薬種を扱うことから、日本の「少彦名命」と中国の「神農氏」を薬祖神として、寄合所にお祀り することになり、伊勢講の人たちの手で奉仕されてきました。 明治になって株仲間が解散してからも、道修町の人々は薬の神様に対する信仰を基につながり、明治17(1884)年には、 薬種商たちの少彦名神社の崇敬者団体として「薬祖講」が組織されました。 現在の神社は、明治43(1910)年に大阪薬種卸仲買商組合員の寄付により、境内地を拡張・社殿を新築したものです。 道修町の薬種商の流れは、江戸時代から現代まで続いていますが、時代の推移につれて扱う薬の種類も業態も多様に 変化してきました。 その中にあって今もなお、道修町は薬祖講を中心にまとまり、神農祭などの祭典斎行や「くすりの道修町資料館」の開設 を通して、地域と企業が町ぐるみ一体となった活動を続けています。
 神農祭で活躍する薬祖講員
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