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【和薬種改めの仕事とは】
17世紀後半から経済の発達により、薬種の需要が急速に高まりました。 八代将軍徳川吉宗が指導した、享保の改革のもと、幕府は諸国に薬草園を 作ったり、採薬調査を行い、薬種の国産化を推進しました。 この政策と平行して、薬種問屋の限定、薬種の品質管理、価格維持、流通整備を 図りました。 当時、唐薬種は道修町の薬種屋により、流通経路は1本化され、薬種真偽の吟味が 行われ、世間の信頼を得ていました。 しかし、和薬種は偽物が出回り、信頼性が薄く、流通経路も定まっていませんでした。 幕府は、享保7(1722)年6月、江戸・駿府・京・大坂・堺の薬種屋の代表を江戸に 集め、講習を受けさせ、和薬種の検査の方法と基準「和薬種六ヶ條」を設定させ ました。 翌月、この5都市に「和薬種改会所」を設立。 各地から、それぞれの都市に入る和薬種の検査=「改め」を受けなければ販売 出来ない体制をつくりました。 道修町では、薬種中買仲間124軒で定行司を決め、毎日交代で和薬種改会所で 検査を行い、偽者を追放する重要な役割をしていました。 和薬種六ヶ條之控 写 (享保7年)
【明治期から戦後の薬事法】
明治維新以降、医療に広く西洋医学が取り入れられるようになり、洋薬の使用が 増してきました。 しかし、洋薬に対する知識はほとんど無い為、一部の外国商人が不当な値段で 販売したり、粗悪品や偽物などが横行しました。 政府は、明治7(1874)年「医制」を布達。 一方では、薬制の確立も急ぎ、不良品の取締りに尽力するほか「薬舗開業試験」 の実施など、薬業者の資質向上を図りました。 明治19(1886)年には「日本薬局方」が制定され、医薬品の基準が設けられる ようになりました。 明治22(1889)年「薬品営業并薬品取扱規則」の公布により薬事法制の整備を 進めました。 大正3(1914)年「売薬法」を公布、大正15(1926)年「薬剤師法」を施行。 先の薬品営業并薬品取扱規則と合わせて昭和18(1943)年の「薬事法」へと 受け継がれました。 戦争を経た昭和23(1948)年、新たな「薬事法」が公布。 昭和35(1960)年には、現行の薬事法が制定されました。 昭和42(1967)年「医薬品の製造承認等に関する基本方針」 昭和47(1971)年「医薬品の再評価」の実施など、医薬品の安全性と有効性を確保し 国民の健康を守る環境を整備する努力が、官民一体となって続けられています。 日本薬局方 第一版
【道修町が果たした近代の薬学教育】
明治3(1870)年、ドイツ医学を採用することが決まり、西洋医学教育が始まりました。 政府は洋薬に対する薬業者の知識を深め、薬剤師制度や近代薬事制度を築く必要がありました。 道修町を中心に大阪でも、明治8(1875)年大阪司薬場の教官を招き、薬業者を対象にした薬学の講習会や 薬舗夜学校が開設されました。 明治19(1886)年、売薬(現在の家庭薬)業者により、伏見町1丁目に「大阪薬学校」が設立。 同年、薬種業者・製薬業者により道修町2丁目に「大阪薬舗学校(後の関西薬学校)」が開校。 明治23(1890)年には、両校が合併、「共立薬学校」となりました。 その後、「私立大阪薬学校」を経て、大正6(1917)年「大阪薬学専門学校」に昇格。 戦後、新制の大阪大学に無償寄付し、「大阪大学薬学部」となっています。 また、明治23(1890)年、道修町3丁目に「大阪道修薬学校」が開校、夜間の薬学講習を行いました。 翌年、昼間女子部を開設。 大正14(1925)年、昼間女子部を「帝国女子薬学専門学校」に昇格。 戦後により男女共学となり、昭和25(1950)年に「大阪薬科大学」となりました。
大正期には、道修町の薬種商の徒弟を対象とした夜学の「小西薬剤学校」もありました。
 大阪司薬場
【国立試験所と双璧の道修町の品質試験】
大阪司薬場は、明治8(1875)年に設置され、薬品試験機関として洋薬の粗悪品を取締りました。 明治16(1883)年には、衛生局大阪試験所、明治20(1887)年には、国立大阪衛生試験所と改称 薬種業者から持ち込まれる日本薬局方薬品の検査にあたりました。 ここで試験済みの薬品に証紙を貼付したものを「官封」といいました。 明治21(1888)年、道修町の有力薬業家が結束し、大阪薬品試験会社を設立。 医薬品とその他の化学製剤の試験業務を行い、その試験を経てされた薬品を「私封」と いいました。この私封は、国立の衛生試験所の官封に勝るとも劣らないと高い評判と信用を 得ました。 明治30(1897)年、道修町の有力薬業家が設立した大阪製薬株式会社は、翌年、東京の 大日本製薬合資会社を合併、大日本製薬株式会社となりました。 明治41(1908)には、大阪薬品試験株式会社をも合併しその業務は「試験部」として引き 継がれました。医薬品の試験・小分け包装を業務とする試験部は、当時民間随一の 薬品試験機関として、常に厳正な試験判定を行いました。 しかし、大正から昭和にかけて製薬部門を持つ業界各社での試験機関が充実、 自社封印へと移行しました。
大阪薬品試験 株式会社の封緘の証
 大阪製薬株式会社 創立趣旨書
【戦後をリードした化学的品質管理】
 製薬企業は当初から、医薬が人や動物に直接作用する物質であるため、製造工程で試験・検査を厳重に行い、品質の良い製品をつくる努力をしてきました。 しかし、品質確保の方法は、科学的な品質管理の理論に基づくものでは ありませんでした。 昭和25(1950)年、米国の著名な統計学者デミング博士が来日し、統計的 品質管理法の指導にあたりました。 翌26(1951)年、同博士を記念し「デミング賞」を設定。 これを契機に医薬品業界全体にも、統計的品質管理が普及し、品質の安定と 収率の向上に一段の成果が上がるようになりました。 その後、昭和44(1969)年のWHO(世界保健機構)においてGMP(医薬品の製造 ・品質管理の実施模範)が採択され、加盟各国にその採用を勧告しました。 日本でも品質を十分に保証する体制確立のため、昭和48(1973)年、日本製薬 工業協会が自主的にGMPを作成、翌年、厚生省が「医薬品の製造および品質 に関する基準」を策定、昭和51(1976)年から完全実施しています。 これにより原料から最終製品の仕上げ・出荷まですべての段階で、順守する事項 が具体的に定められ、医薬品の優良な品質を確保しています。 デミング賞
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