KUSURINOMATI.JPG - 17,579BYTES

< 道修町の商い >

【全国の薬種流通の中心地 ― 道修町】

江戸時代の大坂は、物流・経済の中心でした。
中之島に諸藩の蔵屋敷があり、諸国の物産が一同に集まったため、大坂で売買されて全国へ出荷されました。
道修町の薬種中買仲間は、「くすり」の原料となる「薬種」を商売していました。
長崎で輸入した「唐薬種」も、各地から集まる「和薬種」も目方を改め、品質を鑑別し、価格を決定して諸国に
売りさばきます。現在でいう大問屋、元卸問屋的な存在でした。
このような流通経路は、享保年間(1716〜1736)に定まりました。
道修町薬種中買仲間の成立後は、大坂に入る唐薬種を独占的に取扱う権利が認められるようになります。
安永8(1779)年からは、すべての唐薬種は大坂を通じて扱うことが法制化されました。
和薬種については、法的な独占権は得ませんでした。
しかし、全国に取引網をもつ道修町薬種商の実力により、和薬種も仲間で取扱い量的には唐薬種の3倍に上って
いました。
明治5(1872)年に株仲間が解散となってからも、道修町薬種中買商の間で取引される薬品相場は、全国に影響を
及ぼしていました。
道修町の薬品市場は、戦時経済統制が実施され、公定価格となるまで薬品の価格形成の発信地でした。

13.JPG - 16,161BYTES
伏見屋市兵衛家の庭に鶴飛来図屏風(嘉永元年)


【薬種中買と唐薬問屋の違い】SANPOU.JPG - 15,976BYTES

道修町では、古くから唐薬種(漢薬)を取扱っていました。
江戸時代は鎖国のため、長崎が唯一の窓口でした。
唐薬種は「本商人」と呼ばれる入札権を持つ商人が長崎で買付けます
唐薬問屋は、道修町の「薬種中買仲間」に連絡しそれらの唐薬種の買付けを依頼する
という仕組みをとっていまいした。
唐薬問屋は、自分の資金で商売をしない斡旋機関のような荷受問屋でした。
道修町の薬種中買仲間は、共同で品質を調べ、時価を勘案し値決めを行ってから
買取り、荷直しや封紙をして全国に卸販売を行いました。
薬種中買仲間は、唐薬問屋からの実質的な独占購入権を持つ仕入れ問屋だった
といえます。
しかも、薬種中買い仲間は薬種の真偽を吟味し、斤目(目方)を改める検査機能も
持っていました。
(明治以降の仲買人は、自己の店舗を持たず問屋間の取引を斡旋して、双方から
 口銭をとるブローカーでした。中買仲間と仲買商とは、規模も正確も異なるものです。)        
                                                        三方申合條目(寛延2年)

【株仲間に課せられた集住と制限】

享保7(1722)年、道修町薬種屋仲間(のち薬種中買仲間と呼称)は、124株を持つ仲間として公認されました。
宝暦2(1752)年、薬種中買仲間は必ず道修町1〜3丁目の三町に住むことを取り決めました。
2年後の宝暦4(1754)には、この原則は仲間の組下にも適用しました。
これは、薬種の吟味や値組み(価格決定)するという仲間の集団作業や、幕府=町奉行との連絡に便利だったからだ
と考えられます。
その後、寛政11(1799)年、5株の増加が認められるまで、中買仲間の株数は長い間124株に固定されていました。
このため、永年勤めていた奉公人が別家・分家して独立しても、新たに株仲間が加入できる機会は少なかったのです。
そこで、寛政3(1791)年、「神農講」が組織されました。
別家や分家で新しく商売を始める者を神農講に加入させ、薬種中買仲間と同様の商売をさせる方法がとられるように
なりました。
『薬種中買仲間名前帳』には、安政3(1856)年から、神農講加入者の48人を「薬種中買之内」として組み入れ、
合計177人としています。

     21A.JPG - 22,748BYTES           21B.JPG - 13,622BYTES
       石津作商店店内の風景(大正3年頃)               同店店頭の風景(大正3年頃)

【道修町の丁稚制度】

大阪船場の商家には、近畿周辺の地方出身者が、主人の家に住み込んで、立派な商売人になるため、
教えてもらいながら働く「丁稚奉公」がありました。
丁稚から手代、番頭と進んでから別家独立して営業できるようになります・

丁稚・小僧 古くは10歳頃、のちには小学校卒業の13歳〜14歳、さらに高等学校卒業の15〜16歳頃に入店し
○蔵とか○造とか呼ばれ、丁稚同士は○○ドンと呼び合った。
主家から正月とお祭りに着物、肌着、足袋、下駄等の身の回り品一切が支給(仕着せ制度)され
祝儀が出た。
食事、夜具、病気の治療費等はすべて店主負担で、公休は正月とお祭りだけ、のち月2回
さらに週休となった。
手代 中番頭ともいう。
19歳位で元服し、丁稚から昇格する。
名前も○三とか○吉に変わる。
元服の際、主家から羽織を贈られ、昔はたばこ入れも与えられたが、未成年者の喫煙禁止のため
廃止された。
番頭 27〜28歳頃に名前も○七とか○助となり番頭(大番頭ともいう)となる。
羽織はこの番頭にならないと着れないものだったという。
通いの番頭の退店時間は、夜の11時頃になるのが普通で、来客のある時は12時を過ぎることも
あったらしい。
別家 13年以上の勤務者は、許されて別家し独立暖簾分けし、主家と同一屋号を使用。
別家料・借家・家具一式が支給された。
別家は、1日と15日に主家へ挨拶に出向くのが慣わしであった。

    22A.JPG - 19,840BYTES      22B.JPG - 17,467BYTES
        方曳き車で出荷(石津商店)                道修町シャツを着ている丁稚さんたち       

              


 

                                                                     BTC_BACK2.GIF - 750BYTES                                      BTC_MENU2.GIF - 750BYTES                BTC_NEXT2.GIF - 754BYTES