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(すくなひこなのかみのかんじょう)

 

 江戸時代の道修町の薬種業者は、唐薬種(漢薬)を扱っていたことから、中国の薬祖神である神農氏の
掛け軸を床の間に掛けて祀
(まつ)っていました。それは、人々の健康や生命にかかわる薬種の取扱いが、
神のご加護によって間違いなく遂行されるよう祈念しながら仕事に励んできたのです。
その表れが伊勢講であり、やがて薬祖講へと受け継がれ発展していきます。

■伊勢講の結成

 享保7年(1722)に道修町薬種中買仲間が株仲間として公認されました。そして享保18年(1733)には、
仲間内の有志が集まって「伊勢講」を結成し、伊勢神宮に毎年参拝するようになりました。
 伊勢講では3人の行司(役員)を定め、中買仲間の運営に当たる年行司の補佐的な仕事も兼務していましたが、
中買仲間の組織が整うに従って、伊勢講の業務範囲は縮小されていったようです。

■少彦名神の勧請

当時は唐薬種だけではなく、国産和薬種も道修町から全国に供給されていたため、安永9年(1780)
わが国の医薬の神である少彦名神(すくなひこなのかみ)の分霊を京都・五條天神宮(現・五條天神社)から
お迎えし、薬種中買仲間の寄合所(現在の少彦名神社の位置)にお祀りするようになりました。
 その折の『少彦名神勧請式』の袋が、資料館展示室の2番目のショーケースに展示されています。

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少彦名神勧請式(すくなひこなのかみかんじょうしき)
慎而(つつしんで)
この度、仲間繁栄のため祈り奉るべく、
少彦名神勧請申し奉る。
その時の伊勢講の当番は申すに及ばず

是を司る者は、毎月神社へ燈明、神酒、供物を差し上げ
申すべきこと。
毎年九月十一日御祭礼の式相勤め遣わし、

益々永々仲間その節の伊勢講は神慮を恐れ奉り、
誠心尊敬
奉るべきものなり。もし粗略に相成り候ときは、その時の行司神罰を蒙(こうむ)るものなり。
恐るべし、恐るべし。
  

 文の最後に、「もし、神様を粗末にすれば、神罰が下りますよ。恐るべし恐るべし。」と結んでいることから、
 当時の伊勢講の人々が慎み畏(かしこ)んで祭祀を奉仕していたことが分かります。
 

この袋の中には下の写真のような少彦名神『尊社書』が入っており、伊勢講によって書かれたものです。
 

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それは次のように書かれています。

 「尊社書
  少彦名神は本朝医薬の祖神なり。異朝にては神農氏を以って医薬の祖とす。
  紀南加田に垂迹(すいじゃ)ありて粟嶋(あわしま)大明神と崇敬し、平安城松原通西洞院
  (にしのとういん)に鎮座まして五條天神宮と申して、天子不豫なるときは葛(かつら)の長く負う
  處の靱(ゆぎ)をこの神前に掛ける。(注)
  これ医の神たるをもってなり。
  除夜には諸人(もろびと)この御宮に詣でて、白朮を受けて載中(年中)疫を祓(はら)うなり。
   萬民その澤(たく)を蒙らざる者なく、なかんずくこの薬肆(し)中買商売の輩(やから)は
    尊敬いたし、朝夕真偽相改め大切に売買慎み、子孫の無窮を祈り奉るべく、この寄合所へ勧請申し、
    例年9月11日ご祭礼の式相勤め遣わし、益々仲間は神慮を恐れ奉り、誠心を盡くし、尊敬奉るべきものなり。                                                                                                                                              安永9年10月」

     注)徒然草第203段に
     「勅勘の所に靱懸くる作法、今は絶えて知れる人なし。
        御上の御脳、大方世中の騒がしき時は、五条の天神に靱を懸けらる…」
     (朝廷から法によって裁かれる罪人の門に、靫を取り付ける慣わしも今ではなくなり知る人もいない。
      天皇が病気の際や、世間に疫病が蔓延した際にも、五條天神宮の社前に靫を掛ける…)とあります。
     靫とは矢を入れて背負う筒状の道具のこと。

解説:「少彦名神は日本の医薬の神様です。中国では神農氏が医薬の神様とされています。
    (少彦名神は)紀南加田(和歌山市加太)に現れて粟嶋大明神と崇敬され、平安遷都の際、(奈良県宇陀
    より)
京都松原通西洞院に鎮座されて、五條天神宮と呼ばれ、天皇が病気の時は、靱を神前に掛けました。
    これは、医薬の神様だからです。(五條天神宮は病気、疫病退散の神と考えられていました。)

    また、除夜には多くの人々がこの神社にお参りして、白朮(びゃくじつ―おけら;菊科の多年植物で
         食用・漢方薬の原料となる)をいただいて、1年間の無病息災を祈願します。たくさんの人々がその恩恵を
         授かっていますが、特に薬種中買仲間はこの神様を崇拝し、子孫の繁栄をお祈りするために分霊を
    この寄合所へお迎えし、例年9月11日ご祭礼の式を勤め、誠心を尽くします。」


こうして少彦名神と神農氏を薬祖神として祀ったのが、少彦名神社の起こりです。


■伊勢講から薬祖講(やくそこう)

 明治5年(1872)に株仲間が解散となりましたが、道修町の薬種中買仲間は近代的な薬種商組合に
うまく移行しました。そして、明治17年(1884)には伊勢講に代わって少彦名神社の崇敬者団体として
「薬祖講
(やくそこう)」が組織されました。

 道修町の薬種商は、時代の推移につれて扱う薬の種類も業態も多様化してきましたが、「薬祖講」を
中心に業界の連帯を維持し、人々のいのち
と健康に貢献する活動を続けています。


<註1>
少彦名神(すくなひこなのかみ)と少彦名命(すくなひこなのみこと)
「古事記」では、少名毘古那神(すくなひこなのかみ)、「日本書記」には、少彦名命(すくなひこなのみこと)として記述され、
その他の古典にも種々の表記が用いられています。

 少彦名神社の拝殿の掲額には「少彦名神」となっていますが、神社由緒書には御祭神「少彦名命」と記されて
います。

<註2>
五條天神宮と五條天神社

 安永9年の道修町文書では五條天満宮となっています。
 戦後の宗教法人による登記時に、五條天神社となりました。
 祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと・大国主命)、天照大神です。
 (読み仮名は「ごじょうてんしん」で、天神(てんじん)様=菅原道真公とは全く別です。)
 当神社には、五條天神と同じ「醫祖神之碑」の石碑が残っています。
 また、「義経記」では弁慶が五條天神宮で太刀千本狩りの願をかけ999本の太刀を奪い、あと1本で成就する夜、
 五條天神宮の森の椋の木下で笛の音と共に現れた義経と初めて出会ったといわれています。
 

<註3>
 少彦名神社の例祭日は、3次の変遷を経て、明治10年から11月22日・23日となり、現在に至っています。

<註4>
 おけら(白朮)と言うと京都・八坂神社の大晦日行事「おけら参り」を思い浮かべますが、五條天神社では、
 節分に縁起物の三種の神秘である「おけら」「勝餅」「宝船」を授与しています。
 おけらを削ったものを火種にし、それで起こした火で勝餅を煎ります。
 「宝船」の図は、日本最古の図で舟に稲穂を一束乗せただけの簡素なものですが、神代文字の朱印が
 押印され、毎日厄除け病除けを祈願すれば年中つつがなく世上の浪を渡り安全を保つことができると
 されています。(有料)


 
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