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道修町薬種中買仲間(株仲間)の文書である「道修町文書」の中に、『三方申合條目』という重要な文書があります。
この“三方”というのは、どのようなものなのでしょうか。
   “三方”″とは、長崎の「五ヶ所本商人」、大坂の「唐薬問屋」、「道修町薬種中買仲間」の三者を指します。
そして『三方申合條目』は、株仲間公認後27年たった寛延2年(1749)の文書です。


五ヶ所本商人とは

 江戸時代は鎖国のため、長崎が唯一の貿易港でした。中国や東南アジアで産する唐薬種(漢薬)は、
中国船・オランダ船で長崎に入り、「長崎会所」に荷揚げされます。
そして「五ヶ所本商人」(江戸・京・大坂・堺・長崎の輸入業者)と呼ばれる入札権をもった商人が、
長崎会所で落札して商品を買付けます。
本商人は、長崎と堺や大坂の間を往き来している船や陸路で、唐薬種を堺や大坂に運んで来ます。
(江戸時代の中頃になると、堺港の土砂堆積により、専ら大坂に送られました。)


唐薬問屋とは

 大坂では「唐薬問屋」が荷受けして荷物を預かり、それを道修町の薬種中買仲間に連絡して、
唐薬種の買い出しを依頼するという仕組をとっていました。従って唐薬問屋は、
自己の資金で商品を取引しない「荷受け問屋」で、本商人(荷主)と中買仲間の間で売買が成立すると、
双方から仲立ちの口銭を受取るのが業務でした。


道修町薬種中買仲間とは

 唐薬問屋から唐薬種入荷の通知を受けると、その品物の購入を希望する道修町の薬種中買仲間が
唐薬問屋へ出向いて行き、「手板改め」と言って、薬種の真偽・善悪を吟味し、内容の重さを計って
(斤目掛け改め)、手板(送り状)通りであれば、そこで始めて取引します。
そして「値組み」と言って、立ち会った中買仲間で入札した価格を平均した価格で荷主と交渉の上、
中買仲間が一括して買い取り、個々の中買仲間の商人へは仲間内部で配分するという方式がとられました。
(つまり中買仲間は実質的な「仕入問屋」でした。)

 そのように買い取られた唐薬種は道修町の中買仲間から、大坂市中の脇店だけでなく、
全国各地の薬種問屋・薬種屋・合薬(あいぐすり)屋に売り捌かれました。

 大消費地の江戸へは、大坂・道修町から送られる薬種を、江戸本町(ほんちょう)三丁目と
大伝馬組の薬種問屋が二次的に独占して取扱いましたので、江戸を中心とする関東・東海の市場圏は、
間接的に大坂圏に属していたと言えます。
このようにして江戸時代、大坂・道修町は全国の唐薬種流通の中心地であり、
全国市場を掌握する道修町中買仲間の実力により、和薬種の取引量も増加しました。


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申合(もうしあわせ)條目
一、 薬種類売出しの儀、問屋より仲買方へ申し入れ候
定日、滞りなく買出し之
(これ)あること
但し其の時の相場、荷主了簡(けん)に叶(かな)い難く、売出し延引致すべき代物(しろもの)に候えども、先ず
売出し置き申したき代物は、最初櫃
(ひつ)数幾櫃と
申すこと仲買方へ申し達し、其の櫃数をもって買出し之
(これ)あること
並びに売出しの節、若し値(ね)組み済み兼ね候時は幾品にても櫃数相極め買出し之あること。
はたまた惣体売出し値組みの節、買方より始終付け買いに致し候こと
附(つけた)り櫃数相対なく値組み相済み候分は、

その席に立合い候  仲買中顔付(顔ぶれ)差出し致し申すべく候。
此の顔付
  より減じ申すとも、増し申す儀は之なく候



『三方申合状』の制定

 長崎で輸入された唐薬種が大坂に送られ、道修町の
薬種屋が優先的に買い取るという流通構造は、享保期に
124軒の株仲間が組織されてからのことですが、その
業務が法制的に規定されたものではありませんでした。
それで本商人・唐薬問屋・中買の間で取引をめぐる争いが絶えず、それを解決するため、三者の協議によって、
寛延2年6月(1749)、『三方申合條目』がつくられ、
中買仲間の地位が制度的に明文化されました。

 『三方申合條目』の1頁目には、
左のように記されています。
これは、唐薬問屋から薬種売出しを中買仲間へ通知したら、定めた日に買い取ってもらいたいということです。
なぜなら、中買が買出しを遅らせたり、荷主が相場の上がるまで売出しを延ばそうとすると、本商人は落札代銀を長崎会所へ
上納するのが遅れ、次の入札ができなくなるからです。
 そのほか、入荷量が20櫃以下の荷物については、荷主・唐薬問屋が勝手に売り捌いてもよいかとか、本商人から
唐薬問屋以外へ荷物を直売してはいけない、近辺に住居があっても中買でない人には問屋から一切売買しない等、
25ヶ条の条目が申し合わされています。
 そして最終の頁には右のように書かれています。
 この頁の最初の行の文章は、
前頁の「本商人方・中買方・問屋方三方のうち何方にても自然右のヶ條一品にても相背く仁これあるに於ては、三方・・・」に続くもので、「三方評議の上、商売
取引致す間敷きこと」となります。

 そして末尾の署名には、五ヶ所本商人中、道修町
中買中、唐薬問屋中と正しく明記されています。

 ところが、表紙を見ますと、道修町買が薬種買と
書かれているのです。これは変ですね。

一、

本商人方、中買方 三方の内、いず方にても自然右のヶ條一品にても相背き申す仁これあるに於ては、三方・・・
   評議の上商売取引致すまじきこと
   右の通り此の度び本商人方、中買方、問屋方三方
   申談
(もうしだん)じ相究め候ところ、違変之あるまじく候。
   其のためよって件の如し

             五ヶ所
               本商人中
             道修町
               中買中
             唐薬
               問屋中
  寛延二年巳六月

薬種中買仲間と仲間商の違い
 
道修町薬種中買仲間が実質的な「仕入問屋」であり、さらに荷直しや封紙をして全国へ卸販売をする「卸問屋」であるのに
“中買”という名称を用いたのは、別に唐薬問屋が存在したために“問屋”の名称を避けたためと思われます。
 それにしても、中買仲間自身が今回の文書において、“薬種仲買”とか“仲買方”とか誤った文字を書いているのは
不可解としか申しようがありません。
しかも他の本文中の文字や最後の署名は“中買方”とか“中買中”となっていますので、昔の人は大らかだったのですね。

 明治以降の仲買人は、自己の店舗を持たず、問屋間の取引を仲介して、双方から口銭をとる商人でした。
従って、中買仲間と仲買商とは、規模も性格も異なるものです。
道修町
買仲間と原稿に書いても、現代感覚から勝手に買と校正・印刷されることもあるのは、困ったことです。



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