
| 江戸時代中期の初め、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」の中で、諸国の薬草を調査し、薬草栽培の奨励を行い、 和薬(国産の薬種)の種類と量を増大させる政策がとられました。 また享保7年(1722)6月、江戸・駿府・京都・堺・大坂の薬種屋の代表を江戸に集め、本草学者 丹羽正伯の指導の下で、 和薬種の検査の方法と基準を決定させました。 そして上記5都市に「和薬改会所」を設置させ、各地からそれぞれの都市に入る和薬種は、改会所の検査を受けなければ 販売できない体制をつくりました。 当時大坂・道修町には、長崎へ輸入された唐薬種を一手に仕入れ、品質を吟味し、目方を改め、値決めをして、 全国に卸販売する薬種屋仲間が既に成立していました。 | |||||||||||||||
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この文書では、道修町薬種屋仲間124軒が、株仲間として公認され、同年8月から淡路町一丁目に
置かれた会所で、日行司(当番)3人が毎日交代で詰めて、改会所に持ち込まれる和薬種の検査を行いました。
そして、検査後の薬種しか商売してはならないことが記されています。
また「道修町壱丁目、弐丁目、三丁目の薬種仲間の者124人のうち・・・・」と記されていますので、
道修町薬種屋仲間は、道修町一丁目から三丁目に集住して営業していたことが分かります。
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「和薬種改会所」が設けられた翌年の享保8年(1723)12月、大坂では「和薬改会所 和薬問屋へ替り候 御町觸」
が発せられ、20人の和薬問屋が決められて、大坂に入るすべての和薬は、和薬問屋へ集荷され、その問屋が
改会所で和薬種の検査を行うことに変更されました。(他の4都市は従来通りのまま)
これは、道修町薬種屋仲間が唐薬種の取扱い業務が主力であったため、和薬種については、和薬専門の問屋20人に
任せてしまうことに変更されたわけです。
このようにして道修町薬種屋仲間は「和薬改会所」の運営から退きましたが、唐薬種の専門家という技術力と全国的な
取引網を握っていたので、薬種屋仲間として存続しつづけました。
享保20年(1735)には薬種真偽の吟味、又は仲間取り締りのため、定行司(じょうぎょうじ当番役員)を置くこととし、
「道修町薬種中買仲間」という名称を取得します。
和薬改会所が設置されてから16年経った元文3年(1738)、5都市に設けられていた「和薬改会所」において、
和薬種の真偽を見分ける技術が習得されたとして、各地の改会所は廃止されることになりました。
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| 大坂では同年5月25日付けで、町奉行 稲垣淡路守から三郷惣年寄あてに、「和薬改会所相止候 御町觸」を大坂市中の 町々に觸れ流すように指示されました。 内容は、和薬改会所の廃止と、それぞれの店が確かな品質の薬種を扱う事を要請しています。 それは、言い換えれば、道修町には幕府の要請で和薬種の品質管理の講習を受けた人たちがちゃんと管理していて、 品物は間違いなく似せ薬も入っていないということで、道修町が薬種の全国的な流通の中心になっていったと考えられます。 この文書において、差出人の淡路守の署名が上の位置にあり、受取人の三郷惣年寄が下位置になっているのは、 当時の身分制度を物語っていて興味深いです。 こののち、全国市場を握っていた道修町薬種中買仲間では、和薬種の取り扱いも増加し、長崎で輸入された唐薬種と、 各地の国産和薬種の双方の目方・品質を検査し、適正価格を定め、全国に供給する総元締めの役割を果たすことになりました。 |