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江戸時代中期の初め、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」の中で、諸国の薬草を調査し、薬草栽培の奨励を行い、
和薬(国産の薬種)の種類と量を増大させる政策がとられました。
また享保7年(1722)6月、江戸・駿府・京都・堺・大坂の薬種屋の代表を江戸に集め、本草学者 丹羽正伯の指導の下で、
和薬種の検査の方法と基準を決定させました。
そして上記5都市に「和薬改会所」を設置させ、各地からそれぞれの都市に入る和薬種は、改会所の検査を受けなければ
販売できない体制をつくりました。
 当時大坂・道修町には、長崎へ輸入された唐薬種を一手に仕入れ、品質を吟味し、目方を改め、値決めをして、
全国に卸販売する薬種屋仲間が既に成立していました。


「和薬改会所」が設置されるにあたり、8月25日、大坂町奉行から
三郷(北組、南組、天満組)惣年寄を通じて町々に発せられました。


和薬改会所相建候節御町觸
(わやくあらためかいしょ あいたてそうろうせつ おんまちぶれ)

一、 此の度和薬種真偽吟味の儀、伏見屋市左衛門、
福嶋屋吉兵衛、堺屋与太夫 右三人頭取にて
道修町壱丁目、弐丁目、三丁目の薬種仲間の者
百廿四人の内、日行司申し付け、淡路町壱丁目に
会所極め相改め候間、向後は諸国より問屋へ
着き申す和薬種は、其の問屋より改会所へ相進め、
改めを請け、近国又は在々より問屋の外へ持ち
来たり候はば、其の者より差図致し、改会所へ
遣わし、改め済み候上、商売致すべく候。
改めこれ無き和薬種商売仕る間敷く候。
相背き候はば、きっと申し付くべく候。
もし不埒の者これ有らば、右三人の者より訴え
出候様申し付け候間、此の旨相守る可く候事

右の趣  三郷町中相觸れる可き者也
  寅八月廿五日 安 房(北篠安房守・・・西町奉行)
    飛 騨(鈴木飛騨守・・・東町奉行)

 

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この文書では、道修町薬種屋仲間124軒が、株仲間として公認され、同年8月から淡路町一丁目に
置かれた会所で、日行司(当番)3人が毎日交代で詰めて、改会所に持ち込まれる和薬種の検査を行いました。
そして、検査後の薬種しか商売してはならないことが記されています。
また「道修町壱丁目、弐丁目、三丁目の薬種仲間の者124人のうち・・・・」と記されていますので、
道修町薬種屋仲間は、道修町一丁目から三丁目に集住して営業していたことが分かります。




和薬改会所 和薬問屋へ替り候  御町觸之写

(十七名の名前連記)

右十七人の者共、和薬改め頭取伏見屋市左衛門、
福嶋屋吉兵衛、堺屋与太夫以上弐拾人和薬問屋に
相極まり候間、近在より持ち出候和薬種の分は勿論、
国々より薬種屋、同中買そのほか、諸問屋へ指し登せ候
和薬種の分は、右弐十人の問屋方へ相着け申すべく候。
尤も和薬改めの儀も、廿人の者共相改め候間、改め方の儀去る寅八月相觸れ候通り相心得べく候


右の通り三郷町中相觸れる可く候 以上

  享保八年卯十二月十八日

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「和薬種改会所」が設けられた翌年の享保8年(1723)12月、大坂では「和薬改会所 和薬問屋へ替り候 御町
が発せられ、20人の和薬問屋が決められて、
大坂に入るすべての和薬は、和薬問屋へ集荷され、その問屋が
改会所で和薬種の検査を行うことに変更されました。(他の4都市は従来通りのまま)
これは、道修町薬種屋仲間が唐薬種の取扱い業務が主力であったため、和薬種については、和薬専門の問屋20人に
任せてしまうことに変更されたわけです。
このようにして道修町薬種屋仲間は「和薬改会所」の運営から退きましたが、唐薬種の専門家という技術力と全国的な
取引網を握っていたので、薬種屋仲間として存続しつづけました。
享保20年(1735)には薬種真偽の吟味、又は仲間取り締りのため、定行司(じょうぎょうじ当番役員)を置くこととし、
道修町薬種中買仲間」という名称を取得します。

 和薬改会所が設置されてから16年経った元文3年(1738)、5都市に設けられていた「和薬改会所」において、
和薬種の真偽を見分ける技術が習得されたとして、各地の改会所は廃止されることになりました。



和薬の儀、形不分明なる物、或は名目取り違え候物これ有る故、
先達て和薬改会所仰せ付けられ、相改め候に付き、問屋共は勿論、脇々薬屋共までも真物覚え申すべく候。自今和薬改会所相止め候。山方より出し候薬種、問屋に限らず何方にてなりとも勝手次第に
売買致すべく候。
右の通りに候へども、薬種問屋は勿論、脇々薬屋共までも随分紛らわしき薬種売買致さざる様に吟味いたし、不分明なる物これ有り候えば、丹羽正伯方へ相違し、差図を請け候上、売買致すべく候。
若し紛らわしき薬みだりに売買致し候はば、吟味の上きっと申し付くべき事右の通り三郷町中觸れ知らすべき者なり
  元文三年午五月廿五日
     淡路 (稲垣淡路守・・・・東町奉行)
                     三郷惣年寄
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大坂では同年5月25日付けで、町奉行 稲垣淡路守から三郷惣年寄あてに、「和薬改会所相止候 御町觸」を大坂市中の
町々に觸れ流すように指示されました。
内容は、和薬改会所の廃止と、それぞれの店が確かな品質の薬種を扱う事を要請しています。
それは、言い換えれば、道修町には幕府の要請で和薬種の品質管理の講習を受けた人たちがちゃんと管理していて、
品物は間違いなく似せ薬も入っていないということで、道修町が薬種の全国的な流通の中心になっていったと考えられます。
 この文書において、差出人の淡路守の署名が上の位置にあり、受取人の三郷惣年寄が下位置になっているのは、
当時の身分制度を物語っていて興味深いです。


 こののち、全国市場を握っていた道修町薬種中買仲間では、和薬種の取り扱いも増加し、長崎で輸入された唐薬種と、
各地の国産和薬種の双方の目方・品質を検査し、適正価格を定め、全国に供給する総元締めの役割を果たすことになりました。

 
 
 
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