
資料館展示室の「くすりの町のあゆみ」コーナーに『仲間最初書』という和綴 じの冊子が展示されています。享保7年(1722)、道修町薬種屋仲間124軒は、長崎で輸入された唐薬種(漢薬)を一手に取り扱う株仲間として公認されました。 そしてこの年、幕府より「此度、和薬種吟味について江戸本町三丁目 薬種屋仲間と委細を申し合わせるように」との指示を受けて、 和薬種改会所(わやくしゅあらためかいしょ/和薬の品質鑑定をする所)の 設立に向け、堺・駿府・京都・和歌山・大坂の薬種屋の代表が、江戸で幕府お抱えの本草学者達と和薬種について協議を行いました。 この文書は、大坂の薬種仲間の代表として伏見屋市衛門と福島屋吉兵衛が江戸へ下向した時の記録で「仲間の最初の文書」として 2冊(乾の巻,坤の巻)残されています。 |
| ―「乾」(けん)の巻 ― | |||
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福嶋屋吉兵衛の「江府(江戸)滞留日記」(60ページの冊子)で、個人的な日記体で書かれています。
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―「坤」(こん)の巻 ― |
「坤」の巻では、代表2人が大坂帰着後、淡路町一丁目に「和薬種改会所」をつくり、8月25日から業務を始めていることが記されています。(江戸では享保7年6月19日、伊勢町表河岸に設置されました。) さらに道修町一丁目〜三丁目の薬種屋仲間の者124人のうち、日行司 (当番)3人ずつを会所に詰めさせ、和薬種吟味改め(品質鑑定)に当たる ことになりましたが、その日行司40組のリストも20ページにわたって掲げられており、「薬種中買仲間」の当初のメンバーを知ることができます。 「和薬種改会所」では唐薬の吟味は取り扱っておらず、唐薬種については 道修町薬種中買仲間が真偽の鑑別を行った上、全国へ流通させていました。 16年後、各地の「和薬種改会所」が廃止されましたが、全国に取引網を持つ 道修町薬種商の実力と信用により、和薬種の取扱高も増え、量的には唐薬種を上回るようになりました。このようにして唐薬種・和薬種の両方が扱え、品質確保に努めてきた道修町は全国の和漢薬種流通の中心地となっていきました。 |