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薬種問屋から製薬企業
第一部 (明治期)
平成16年4月〜9月開催
大阪・道修町は、江戸時代から薬種中買仲間(株仲間)が道修町一丁目から三丁目まに集住し、責任をもって 和漢薬種の鑑別にあたり、価格を形成し、全国への薬種流通の中心になっていました。
明治以後、輸入された洋薬知識の習得、薬品試験から、局方品の小規模製薬が始まり、道修町の薬業家による 大阪薬品試験会社、大阪製薬会社を経て、大日本製薬株式会社に発展します。
また、有力薬種問屋は自ら製薬部門の設置を志しますが、明治末年までの概観を第一部として展示します。
1.漢方医学から西洋医学へ
江戸時代の日本医学の主流は漢方医学で、草根木皮を原料とする和漢薬が用いられていました。
幕末に蘭学を通じてオランダ医学が伝えられましたが、オランダ医学もドイツ医学を範としていることが知られ、 明治3(1870)年、政府はドイツ医学の採用を決定し、医学の大半はドイツ医学へと移行しました。 そして、和漢薬から化学薬品を扱う西洋薬への時代となっていきました。
薬学においても明治2(1869)年、化学や洋薬の知識の普及に努めるべく大阪・大手前に「舎密局(せいみ きょく)」(舎密とは、オランダ語の化学chemieの音訳)が設けられ、長崎の分析究理所にいたオランダ人の 化学博士・医学博士ハラタマを招いて理化学教授にあたらせました。 当時の最新、最高レベルの西洋の化学、物理学の講義が行われ、ハラタマの講義録は「理化新説」という4巻 の本に残っています。 1年後、ハラタマは帰国し、明治4年、舎密局は大阪理学所と改称され、幾多の変遷を経て明治22年、京都へ 移り第三高等学校(現在の京都大学)となりました。
 史跡 舎密局跡の碑 ハラタマ氏
2.西洋薬の流れと司薬場
洋薬はオランダ医学と共に長崎を通じてわずかに輸入されていましたが、安政の開国以後は、横浜、神戸 (慶応3年開港)等へも輸入されるようになりました。
維新当初でも道修町では、和漢薬の取扱いが主流でしたが、西洋医学の導入とともに洋薬の輸入、使用が 年々増加していきました。 明治初期の薬品貿易は、横浜や神戸の外国商館が輸入した洋薬を、道修町の薬種問屋が買い入れていましたが、 中には偽薬や粗悪品が横行しておりました。 そこで、洋薬識別の知識を必要と痛感した大阪薬業界の要望により、明治6(1873)年、大阪・今橋四丁目に 民間組織の「精々舎」が設置され、オランダ人薬学者のドクトル・ドワルスを招き、薬品の鑑定・製薬法の教授を 委嘱しました。
政府も人命に関する重大問題として、明治7年、東京に「司薬場」を設置し、薬品試験と薬学講習、製薬技術 の伝習に当たらせました。
大阪司薬場は、明治8年、元理学所の敷地・校舎を使用して発足しました。 教師には、「精々舎」で薬品試験に従事していたドワルスが任命されました。大阪司薬場は、明治13(1880)年 大手前から中之島へ移り、明治16年内務省衛生局大阪試験所、明治20年に大阪衛生研究所と改称され 明治31(1898)年、京橋三丁目へ移転しています。
 ドワルス氏(艸楽新聞挿絵より) 大阪司薬場 大阪衛生試験所 庁舎
3.製薬の揺らん期
洋薬の輸入と並行して、明治初期から丁幾(チンキ)、舎利別(シロップ)のような簡単な洋薬の製造努力が 個々の薬業家の手によって続けられました。しかし、規模は小さく技術も幼稚で家内工業の域を出ませんでした。
大阪における洋薬製造の例を見ると、西山良造は精々舎でドワルスの教授を受け、同所の廃止と共に大阪司薬場に 勤務しましたが、明治10(1877)年から製薬事業に従事し、エーテルの製造では我が国で最初の人となりました。 その配下に石濱豊蔵がおり、彼は後に丸石製薬の創始者となりました。
また、ドワルスに学んだ田辺元三郎(田辺五兵衛 三男)は、道修町の店舗の裏手の土蔵を改造して、明治10年に 小さな作業所を作り、アルコール等の製造に着手しましたが、2年後、エーテル製造中に爆発が起こり死去しました。 12代目田辺五衛兵は、次男を分家して元三郎を襲名させ、これが、東京田辺三菱製薬の創始者になりました。 明治18(1885)年、大阪・南同心町に田辺製薬工場が竣工し、田辺製薬の製造部門の基礎となりました。 石津作次郎は、明治12(1879)年、東京大学製薬学科別科を卒業して試薬の純硫酸の精製を開始し、 石津製薬の創始者になりました。
4.薬品取締制度と日本薬局方の制定
政府は医師に対する制度と共に、薬品取締制度を設ける必要があるため、 明治8(1875)年、「医制」を発布して司薬場、医師、薬舗、薬品取扱等のことを 規定しました。
明治13(1880)年には、「薬品取扱規則」を制定しましたが、設ける以上は その薬品の基準を明らかにするため、「薬局方」の制定が必要となり、 明治8年オランダ人ゲールツ・ドワルスが「日本薬局方」起草を命じられ 明治14年から委員会により編集に着手、明治19(1886)年第一般を公布し、 20年から施行しました。 その後「日本薬局方」は、明治時代に次のように改正されています。 明治24(1891)年「改正 日本薬局方」公布 明治39(1906)年「第三改正 日本薬局方」公布
また、薬品業者の資格として、明治9年から「薬舗開業試験」が行われ 「製薬免許手続」も定められました。 このときから薬舗は薬局、薬舗主は薬剤師、製薬人は製薬者となって 「日本薬局方」第一版 薬事制度が整備されました。 明治22(1889)年には、法律十号「薬品営業並に薬品取締規則」が公布され、 一般に「薬律」といわれました。
5.大阪薬品試験会社の設立
司薬場では、検査に合格した品質保証のため「司薬場検査済印紙」を貼付していました。
大阪司薬場は明治16(1883)年、衛生局大阪試験所と改称され、検査済印紙は「衛生局試験所検査之証」 と変わりました。 明治22(1889)年「薬律」制定後、「自今衛生試験所において検査印紙を貼付するものは、日本薬局方所定の薬品に限る」 とされました。 しかし、実際に取り扱われた薬品は、日本薬局方所定品でないものが多数あり、新製品が続々と海外から輸入 される時代となると、営業上に支障をきたすことが生じました。 そこで、日本薬局方はもちろん、各国薬局収載薬品のいずれにも記載していない新製品などの試験をするため 大阪薬種卸仲買商組合は、有力者14名を発起人として明治21(1888)年、大阪薬品試験会社を設立、その 検査済印紙は、官立の大阪衛生試験所の検査印紙に匹敵すると評価されました。 大阪薬品試験会社は、明治41(1908)年大日本製薬株式会社に合併され、その事業は同社の「試験部」と して引き継がれました。
 司薬場検査印紙 衛生試験所検査證紙 大阪薬品試験会社検査證紙
大日本製薬株式会社封緘紙
6.外国商館取引から直輸入へ
外国商館が輸入した洋薬を買付けていた薬種問屋は、従来の和漢薬から洋薬を取扱う業者が増加し、明治11(1878)年に 大阪府へ報告された道修町の「西洋薬盛大取扱人名」として、長岡佐助、田畑利兵衛、塩野宗三郎、武田長兵衛、 田辺五兵衛、錦源兵衛の名が見えます。 また、翌明治12年の報告では、早矢志寅吉、掛見助松、大井卜新、賀陽碌平の名も加わっています。 このうち、大井卜新と賀陽碌平は製薬業者でもありました。
輸入薬の増加により、洋薬商の知識が高まり、外国商館からの買付けから欧米の商社やメーカーから薬品を 直輸入するようになり、外国商館も客を待つ従来の風習から、輸入薬品取扱いの大問屋を訪ねてその力を 借りようとするに至りました。 特に日露戦争後(1905)には、ドイツをはじめ、各国の新薬が続々と我が国に輸入され、道修町の大問屋で 「薬種貿易商」を名乗る例も現れるようになりました。
7.大阪製薬から大日本製薬へ
明治19(1886)年に日本薬局方が公布されたものの、局方に適合する薬品を製造する製薬所を個人で創設することは、 当時では無理であったので、国庫の補助を仰ぎ、ドイツに留学中のドクトル・長井長義を製薬長として 明治18年、東京木挽町に大日本製薬会社が設立されました。
一方、大阪・道修町の有力薬業家において、先に大阪薬品試験会社が設立されていましたが、明治23(1890)年には、 武田、田辺、塩野義の三商店の共同出資により、ヨード製造を目的とする「広業舎」を設立して、舶来品に劣らない品質の ものを製造しました。 さらに、旧来の伝説を有する道修町薬業の総意を結集して、大阪の地に近代的な製薬所を設立し純良医薬品を 提供するため、明治30(1897)年、日野九郎兵衛、田辺五兵衛、小野市兵衛、武田長兵衛、谷山伊兵衛を役員として 「大阪製薬株式会社」が設立され、近代製薬事業の第一歩を踏み出しました。 大阪製薬株式会社は、明治31(1899)に半官半民で経営難に陥っていた東京の大日本製薬会社を吸収合併して 「大日本製薬株式会社」となり、海老江の新鋭工場を軸として、アルコールのほか主に局方品の製造に邁進しました。
8.大阪製薬同業組合の結成
明治30(1897)年前後、大阪製薬業界では、大日本製薬株式会社の発足があったほか、中藤昇平、岩井松之助 小西利七、石濱豊蔵、内林直吉、小西久兵衛、蓮井宗吉、須賀磯八、小野市兵衛、黒石卯之助らが小規模ながら 局方品製造に挑んでいました。
明治34年の「重要物産組合法」により「大阪製薬同業組合」を設立する動きが出て、石濱豊蔵、小西利七、小西九兵衛 が発起人となり、明治35年に設立を許可されました。 初代取締役は、石濱豊蔵で組合事務所は当初、東区伏見町二丁目中橋筋東入北側に置かれました。 ここにおいて、江戸時代の薬種中買仲間の伝統を受け継ぐ道修町の同業組合は、流通面の「大阪薬種卸仲買商組合」 と、製造面の「大阪製薬同業組合」とに分かれたわけです。 そして、製薬同業組合の流れは、戦後の「大阪医薬品協会」に引き継がれています。
9.薬種問屋の製造部門
道修町では、有力薬業家により共同出資の大阪薬品試験会社や、大阪製薬株式会社を設立しましたが、個々の薬種 問屋においても自らの製薬部門を持つことを志しました。
例えば、初代 塩野義三郎の次男 長次郎は、明治40(1907)年東京帝国大学薬学科を卒業し、明治43年、海老江に 「塩野製薬所」を開設し、強心剤ヂキタミンをはじめ第一次世界大戦中に国産代用医薬品を数多く製造しました。 大戦後の大正8(1919)年、薬種問屋 塩野義三郎商店と製造部門 塩野製薬所は合併して株式会社 塩野義商店 となりました。
また、武田長兵衛商店では明治28(1895)年、薬学に造詣の深い内林直吉の内林製薬所を専属工場としました。 五代 長兵衛の弟 武田二郎は、明治44(1911)年東京帝国大学薬学科を卒業後、武田研究所、武田製薬所を経て 大正7(1918)年、内林製薬所を合併して設立された武田製薬株式会社の社長となりました。 そして、大正14(1925)年個人企業の武田長兵衛商店と武田製薬株式会社は合併し、株式会社武田長兵衛商店が 設立されました。
明治27(1894)年創業の藤沢友吉商店では、売薬本舗相手の取引を確保し、特殊製品として、樟脳の生産、販売に 努力して順調な発展を見せ、日露戦争後に新工場を建設、第一次大戦中にブルトーゼ等を製造販売し、製薬部門を 発展させてきました。
10.道修町と「合薬屋」の売薬
江戸時代、道修町の薬種中買仲間は唐薬種(漢薬)を独占的に取扱い、和薬種についても取扱量が増加し、道修町は 全国の薬種流通の中心地となりました。 このように、道修町は和漢薬の原材料を全国に供給する役割を果たしていましたが、最終製品の薬は造っていなかったので、 その頃の道修町では、製品の看板、広告などは店の内外に見られませんでした。
全国各地の「合薬屋(あいぐすりや)」では、道修町から地方薬種問屋へ渡った各薬種の原材料を仕入れ、家伝処方に より配合した「売薬」を製造・販売していました。そして店の看板や、絵びら(ポスター)、引札(チラシ)などの派手な広告 が行われていました。 明治維新後、政府は売薬を取締る必要から、明治3(1870)年「売薬取締規則」を布告し、さらに明治10(1877)には、 「売薬規則」を公布しました。 また、明治15年には「売薬印紙税規則」が発布され、防疫費の不足を補う財源とされました。 当初の新政府の売薬に対する考え方は、「有効なもの」という見方から「無効・無害なもの」という見方で取締ろうとして いましたが、民間に広く浸透していた売薬は、時代経過と共に洋薬配合の売薬が出現し、宣伝にも努めたため全国的に 普及したものが多く、明治末年には売薬も「有効なもの」と認められるようになり、生産額も増加しました。

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