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薬種問屋から製薬企業へ
第二部 (大正・昭和期)
平成16年10月〜平成17年3月開催
第一次世界大戦の影響により、国産代用品の製薬が推奨され、多くの製薬会社が設立されました。 当時は、外国製品の模倣が大部分でしたが、昭和初期には局方薬品が自給されるようになりました。 昭和10年代には、ビタミンB1の合成、サルファ剤の登場など、化学合成技術が発達しましたが、 戦時統制経済や戦災のため製薬企業は一から出直しとなります。
1.新薬・新製剤が売薬かの区別
明治10(1877)年の売薬規則によると、 「売薬とは丸薬・練薬・散薬・水薬・煎薬・膏薬等を調製し、効能書きを附して販売するものをいう」とあって、 家伝処方のものを官許を受けて販売するのが売薬でした。
一方、明治22(1889)年の「薬品営業並びに薬品取扱規則」には、 「いずれの薬局方にも記載せざる新規の薬品」 すなわち新薬といわれる医薬があり、この新薬も成分・用法・用量・効能などの説明書を現品に附し、医師及び 薬業者へ周知せしめるため宣伝広告を行う必要がありました。 しかし、新薬・新製剤と売薬の区別が明らかでなく、売薬であれば定価の1割の売薬税が適用される「売薬印紙」 を貼付なければなりませんでした。
大正期に入って薬の自給化が促進され、売薬の需要が増し、国民生活に不可欠となったため、大正15(1626)年には 売薬印紙税も廃止され、この問題は解決されました。 大正年間の「医薬・売薬の生産額」の比較では、国産医療40%、売薬60%の割合で昭和初期までこの傾向が 続きました。(ただし、この額に輸入医薬品は加わっていない。)
2.第一次世界大戦の影響
大正3(1914)年、第一次世界大戦が始まり我が国の医薬品は、その殆どを主としてドイツからの輸入に依存して いたため、品不足と価格の高騰を招きました。 政府は、国産品による自給自足体制を進めるため、翌年「染料医薬品製造奨励法」を公布し、製薬工業に対して 保護助成政策をとり、これに刺激されて国内製薬工業が急速に成長しました。 内務省衛生試験所の製薬部での試験方法、所要原料、製造規模、収得率などのデータを公表して、民間における 製薬事業の育成に努めました。
また大正6(1917)年、政府は「工業用所有権戦時法」を公布して、交戦国が所有する特許権を消失させ、輸入品に 代替する新薬の製造は著しく便宜を得ることになりました。 輸入新薬に代わる大戦中の国産代用品には、表1.のような薬品がみられ、外国製品の模倣ではありましたが、 我が国の製薬業界の科学技術はめざましい発達をとげたのです。
表1.輸入新薬に代わる第一次大戦中の主な国産代用品
梅毒治療剤サルバルサン ネオサルバルサンの国産品 |
アーセミン、タンワルサン、ネオ・ネオ・アーミセン(第一製薬) エーラミゾール、ネオスチバルサン(萬有) アルサミノール、ネオアルサミノール(三共) サビオール(日本新薬) |
| 鎮静剤ブロムラールの国産品 |
カルモチン(武田) ブロバリン(日本新薬) |
| 催眠鎮静剤アダリンの国産品 |
ドルミン(塩野義) |
| 局所麻酔剤ノヴォカイン |
バンカイン(萬有) ネオカイン(塩野義) |
| 不溶性局所麻酔剤アネステジンの国産品
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ノボロフォルム(武田) |
| 補血栄養強壮剤フェラトーゼの国産品 |
ブルトーゼ(藤沢) |
| 強心剤ヂカーレンの国産品 |
ヂギタミン(塩野義) |
| 緩下剤アペリトールの国産品 |
ラキサトール(塩野義) |
| 乳酸菌製剤インテスチフェルミンの国産品 |
ビオフェルミン(神戸衛生実験所) |
日本薬史学会編「日本医薬品産業史」1995年 薬事日報社 刊 に加筆
3.特約店に贈られた「純良薬品」看板
明治後期から大正時代にかけて、道修町の有力薬種問屋が自らの製薬部門を設けて、主に局方薬品を製造し始め ました。 それまでの道修町の「元卸問屋」は、地方の薬種問屋への取引を「注文屋」と呼ばれる道修町の薬種問屋 に委ねていましたが、その頃から地方問屋との取引を強め、代理店・特約店とすることが多くなりました。 局方薬品の場合「日本薬局方」に記載された一般名を用いるため、自家製品について品質の信頼性を主眼とした 「○△印純良薬品」という看板を特約店に贈って、一般薬品との区別を強調しました。 やがて、自家製造新薬にブランド名がつけられて発売されるようになると、それらブランド製品の新聞・専門誌などへの 広告が盛んになっていきました。

4.第一次大戦後の医薬品業界
大正7(1918)年第一次世界大戦終結後、医薬品業界も戦時景気の反動として局方品および製薬原料の暴落が 甚だしく、製薬業者の縮小、廃止をするものが続出し、政府の保護・国策会社である内国製薬・東洋薬品でさえ 破綻を来たしました。 その後の慢性的不況が続く情勢の中にあって、大戦中における製薬興隆時代に経営基盤を築いた企業は、 製薬メーカーとして堅実な歩みを続けました。
重要医薬品(主として局方薬品)の国産・輸入比率(金額)をみると、大正13(1923)年に49%であった国産薬品が、 昭和2(1927)年に65%、昭和5(1930)80%に達し、局方品はほぼ国産で自給できるようになりました。 また、昭和初期にかけて新薬・新製剤の発売も割りに多く、昭和6(1931)年に輸入新薬と国産新薬との割合が相半ば するに至りました。 昭和7(1932)年の第五改正日本薬局方には、大戦中に発売された新薬が多数収載されていたほか、大戦後、昭和8年 までには様々な新薬が発売されました。 しかし、ある薬種問屋での販売比率を見ると、昭和10(1936)年頃までは、自社製品33%(新薬17%、局方16%)、 仕入・輸入商品67%(新薬12%、局方55%)で局方品の時代がまだ続いており、また自社製品も33%程度で 問屋機能の方がまだまだ大きかったことを物語っています。

5.ビタミンB1合成とサルファ剤の登場
ビタミンB剤は、米芽エキスから抽出したもので、大正中期から昭和にかけて一斉に花開きましたが、1935年アメリカで ビタミンB1の合成成功が伝えられ、我が国でも化学合成によるビタミンB1が製造されたのは、昭和12(1937)年でした。
サルファ剤は、ドイツのドマークによってアゾ色素の殺菌性が検索され、昭和7(1932)年プロントジルと命名されました。 その後、プロントジルからスルファニールアミドが出来ることが確かめられ、昭和12年第一製薬で国産の1基スルファミン 剤「テラポール」が製造されました。 また、時を殆ど同じくして山之内製薬は、「ゲリゾン」として発売し翌昭和13年に2基のジスルファミンである「アルバジル」 を製造しました。
これらサルファ剤は、細菌感染を治療する化学療法剤として一世風靡しました。 その後、各社の激しい製造競争により世界的なサルファ剤時代が出現したのです。

6.戦時統制経済下での医薬品業界
昭和6(1931)年の満州事変、昭和12(1937)年の日中戦争勃発によって、統制経済が強化され、翌13年に国家総動員 法の公布、15年に医薬品公定価格の告示、16年に医薬品生産・配給統制規則が実施されました。
昭和18(1943)年、会社の本質を社名によって明確にすることが要請され、医薬品業界でも従来の○○商店から、 ○○製薬会社、あるいは○○薬品工業というように社名が改称されました。 昭和18年末からの太平洋戦争突入後、物資の欠乏により国民生活は窮迫の度を加え、医薬品も原材料の入手難と 軍需優先により民需は圧迫されました。 昭和19(1944)年には「医薬品統制会社」の設立により生産も配給も一本化され、戦争末期には人手不足や戦災等に 医薬品の生産は、昭和12年頃の段階にまでダウンしました。
また、朝鮮・満州・中国・台湾・東南アジアに工場や農場を展開していた医薬品業界の海外資産も、敗戦により一挙に 失ってしまったのです。

「薬種問屋から製薬企業へ」のまとめとして表2.を挙げ、ご参考に供します。
表2.製薬会社の生い立ちからの分類
1.明治維新以前から和漢薬種であったが、次第に洋薬を扱うようになり、 さらには自己生産の医薬品を市場へ供給した会社
関西:武田薬品工業、田辺製薬、塩野義製薬、藤沢薬品工業、小野薬品工業など |
2.主として局方品製造を目的として設立された会社
関西:大阪製薬(のち大日本製薬)丸石製薬、黒石製薬など 東京:帝国製薬、東洋薬品会社など |
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3.当初から新薬の製造販売を目的として設立された会社
関西:日本新薬、日本薬品洋行(のち森下製薬)など 東京:三共、第一製薬、山之内製薬、中外製薬、萬有製薬、エーザイなど |
4.輸入商から製薬に発展した会社
関西:丸善薬品産業、マルホなど 東京:友田製薬、鳥居薬品など |
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5.最初から特殊な製薬を行うことを目的とした会社
関西:石津製薬、伊藤千太郎商店(現 ワカサ)、廣業舎(のち 廣業合資会社) 大塚製薬、上野製薬など |
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6.売薬(大衆薬・家庭薬)の製造販売から出発した会社
関西:参天製薬、ロート製薬、森下仁丹、小林製薬、津村順天堂、カイゲンなど 関東:大正製薬、エスエス製薬、佐藤製薬、和光堂、久光製薬など | 日本薬史学会 編 「日本医薬品産業史」 1995年 薬事日報社 刊に加筆
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