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製薬企業の戦後60年
第一部「製薬企業の戦後復興」
平成17年4月〜9月まで開催
昭和20(1945)年8月、長かった戦争は終結しましたが、製薬企業における戦災被害、海外事業場の喪失、 戦地・海外からの復員・引揚者の受け入れ、戦時補償の打ち切り、悪性インフレ等により、製薬企業は 一からの再出発となりました。 食糧難、交通難や悪化する衛生状況の中で、危機突破運動、企業再建整備への努力が続けられました。 戦中・戦後の技術的空白の復旧と、老朽設備の更新による生産合理化が計られましたが、今回の企画展示は 昭和20年代、30年代を中心に「製薬企業の戦後復興」の姿をご覧いただきます。
1.抗生物質の登場
戦時中に、我が国の医薬学が世界の進展に遅れる中で、肺炎などの細菌感染に協力な威力を発揮する 抗生物質ペニシリンが、戦後驚異をもって迎えられました。 アメリカ進駐軍が優れた菌株を提供して、我が国でもペニシリン製造を指導しましたが、ペニシリンのタンク 大量培養法には、医薬専業メーカーよりも、発酵・醸造などの技術を持つ食品工業が参入するようになりました。
ペニシリンについで登場した抗生物質は、結核菌に有効なストレプマイシンで、昭和24(1949)年から輸入され 翌年には、明治製菓、森永乳業、協和発酵らに製造許可が下りて、国産品が製造されるに至ります。 続いて新しく発見された抗生物質を、有力企業は競って民間ベースで海外メーカーと提携して、輸入・販売に しのぎをけずりました。 パーク・デービス社 クロロマイセチン (三共) 昭和25(1950)年 レダリー社 オーレオマイシン(武田)
昭和25(1950)年 ファイザー社 テラマイシン (田辺) 昭和25(1950)年 イーライ・リリー社 アイロタイシン (塩野義)
昭和28(1953)年

2.結核薬、その他の画期的新薬
結核性疾患は、我が国で昔から不治病といわれ人々を苦しめてきましたが、昭和24(1949)年、結核特効薬 ストレプマイシンの登場はまさに救いの神でした。 その後、パス(PAS)、ヒトラジト(イソニアジド)、リファンピシンなどの抗結核薬が加わって、結核による死亡率は 激減しました。 さらに戦前には知られなかった画期的な新薬が昭和30年代に登場し、国民の医療・保険に貢献しました。
副腎皮質ホルモン … コルチゾン、デキサメタゾン、トリアムシノロン、プレドニゾロン、ヘタメタゾン等 (ステロイド)
血圧降下剤
… レセルピン(エガリン)、ルチン(ルチノン)
向精神薬
… クロルプロマジン(ウインタミン、コントミン)
精神安定剤
… ジアゼパム(セルシン、ホリゾン)、ニトラゼパム(ベンザリン、ネルボン) (トランキライザー) メプロパメート(アトエラキシン)
抗ヒスタミン
… クロルフェニラミン(ポララミン)、ジフェンビラミン(レスタミン) フェノチアジン(ピレチア)
持続性サルファ剤 … スルファイソミジン(ドミアン)、スルフィソキサゾール(サイアジン) スルファメトキサゾール(シノミン)、スルファジメトキシン(アプシード)
3.ビタミン剤の花形時代
戦前からビタミンB1は脚気の薬として知られていましたが、戦後の食糧不足から各種ビタミンをバランスよく摂ることは 困難であったため、ビタミンを総合的に補い、栄養を良くすることが推奨されました。
製薬企業は、メタボリン、パラエス、オリザニンなどのビタミン単味剤から複合ビタミン剤へ、さらに昭和25(1950)年 から昭和28年にかけて、パンビタン(武田)、ビタプレックス(東京田辺)、ポポンS(塩野義)、ミネビタール(三共) ビタベピー(第一)等の総合ビタミン剤が製造発売されました。 また、活性型ビタミンB1剤として、昭和36(1961)年からアリナミン(武田)に続いて、ノイビタ(藤沢)、ベストン(田辺) ビオミタン(三共)、ジセタミン(塩野義)なども開発され、高単位ビタミンC剤も多量に生産されました。
さらに、グルクロン酸製剤グロンサン(中外)や、強肝剤のチオクタン(藤沢)、ネストン(田辺)、リポビタン(大正) アスパラギン酸製剤アスパラ(田辺)、パントテン酸製剤パント錠(第一)等が保健薬として華々しく宣伝されました。 こうしてビタミン剤は、昭和33(1958)年から12年間、医薬品生産額の第1位を占めていきました。 しかし、昭和45(1970)年以降は、3位、5位、6位、7位、8位と低落していきました。

当時の屋外広告
4.「国民皆保険」制度の実地
我が国の健康保険制度が初めて施行されたのは、昭和2(1927)年でしたが、敗戦によりその機能が停止して いました。 戦後の昭和22(1947)年、進駐軍により医療保険制度の再建が指示され、昭和25(1950)年に新しい薬価算定基準 として「薬価基準制度」が導入され、昭和33(1958)年には国民健康保険法が改正され、昭和38(1963)年以降には 「国民医療皆保険」が実現しました。 これにより、国民は何らかの医療保険の恩恵を受けられるようになり、それにつれて「医療用医薬品」の需要が年々 拡大の一途をたどり、医薬品の生産高も飛躍的に上昇しました。 それまでは、医療用医薬品と一般医薬品(大衆薬)との比率は半々位でしたが、昭和35年には逆転し、近年では 85対15となっています。
また、昭和45(1970)年には、それまで生産高第1位であったビタミン剤を抜いて抗生物質がトップに立ちました。
5.海外製造技術の導入
戦後、ペニシリンをはじめそれまで知らなかった外国の世界的新薬が、海外メーカーとの提携契約により我が国の 製薬企業へ導入されました。 当初は、原末(バルク)を輸入したものを国内で小分け・包装して発売していましたが、そのため粉末薬の無菌環境の 製剤作業場や、注射薬の自動充填溶閉機の改善、錠剤の糖衣技術の向上など「製剤技術」が向上し、大規模な 「製剤包装工場」の建設が積極的に行われました。
その次の段階は、先進諸国からの製造技術を導入し外国新薬を自製・国産化することでした。 製薬企業は、昭和26(1951)年頃から欧米の販売提携先と製造技術導入契約を結び、自家製造の努力を続けました。 その結果、海外技術導入が始まった当初は、国産化するまでに1年以上も要していたものが、次第に技術力と生産力 を身につけ、国産化してから製品発売まで数ヶ月に短縮するほどに成長していきました。
 粉末注射薬の無菌小分け室(昭和25年) 錠剤糖衣作業(昭和38年)

参考資料 : 薬事日報社 日本薬史学会編 「日本衣料品産業史」 平成7年刊
薬事日報社 西川 隆 著 「くすりからみた日本」 平成16年刊
製薬会社 各社 「社史」 |